今日、引越屋さんが来て母親と妹の荷物を運んで行きました。
これからは基本的に東京で父親と二人暮らしです(深刻な事情。ではない)
一週間続くかどうか怪しかったブログも、もう記事数103件を数えるほどになりました。
人は変化に富んだ毎日を送るとき、日記を付けたくなるといいます。
実際このブログを始めた当初は色々なことがとても不確かで(分かりにくくてゴメンなさい)、二週間先のことなど考えることもできませんでした。
途中から状況も落ち着くに従って、不思議なことに執筆意欲は減退しました(笑)人は追いつめられている方が、感性が研ぎすまされるようです。戦争は完全な悪であるはずなのに、あれほど人を輝かせてしまうのもうなづける気がします。それとこれとじゃ比較にならないか。
当たり前のことですが、「WEB上に公開する」ということが、日記とブログの大きな違いです。
そこでは他者の視線が意識されます。たまにそうでない文章も見かけるけど。他者の存在があるからこそ書けないことも出てくるし、本当に心の中で思っていることを敢えてずらして「外向きに」書くようなことも出てくるでしょう(じゃあ意味ないじゃん、という意見はひとまず置いておいて・・・)。
そんなデメリットがあるのになぜ皆ブログをやりたがるかというと、「公開」の場において「発言(最近よく意識する言葉)」する権利を得られるからです。「発言」=「自分はどう思うか」であるので、この行為は人間の本能である「(集団の中での)自己実現の欲求」を満たすのに非常に重要な役割を果たします。意見等ではないように思える日々の出来事、例えば今日どこどこに行ったとか、誰と会ったとか、何を食べたか、といったことでも、その人が選んだうえでの行為・記述であるので、「その行為を選んだ自分」を周囲に知らしめることになりやはり「自分を知ってもらうこと」につながるわけです。読んでて面白いかとか、与えるインパクトの強さの程度は変わってくるでしょうけど。
この「自己実現の欲求」を満たしたいという気持ちがあったので、そう変化のなくなってきた毎日の中でもブログ執筆へのモチベーションを持ち続けることができました。完全な自分用の日記だったら三日も持たなかったと思います。
在日韓国・朝鮮人の研究をされている原尻先生の授業で聞いた、
「発言はいつも周縁から」という言葉がとても印象的です。社会の中で不当に扱われている人、またそう感じている人、日常に不満な人々は特に、自分の置かれた境遇を考え、発言しようとします。しかし、日頃から抑圧された存在である彼等の意見は大抵「声なき声」なので見過ごされてきました。インターネットはそんな人たちにも「発言権」を与えたのです。(女性作家の台頭もこれに起因するところが大きいようです。もちろんどのくらいの大きさの「舞台」を得られるかは個人の力量にかかっています)。自分の置かれた境遇をこれに当てはめるのはやや傲慢な気がしますが、相似な部分はあると僕は思います。逆に言えば、普段の生活になんの不満も疑問ももたない人は、必然的にブログ執筆意欲は低くなるでしょう。「私ってすごいの!」的な自慢日記系は別として。まあ、自慢日記も「自己実現の欲求」に貢献しますが。
と、いうわけで今僕が思っていることをつらつら書いてきましたが、時間の経過に伴いこのブログの三本柱だった
「教習(苦痛だった)」→終了
「教職(目から鱗、が多かった)」→学校が休みなので授業なし
「バイト(特にきつかった電器屋と印象的だった家庭教師)」→終了
そして「神奈川でちょっと不本意に一人暮らし」という設定も崩れ始めています。
時期的にも状況的にも、「クニの教習教職バイト日記」は一旦ここで幕を下ろすのが適切だろうと判断した次第であります。いつも読んでくれていた人ありがとう。
とはいえまた近いうちに新しいのを始めるつもりです(笑)
103件の記事の中のどれか一つでも、心に残ってくれている部分があれば嬉しいです。

おまけ
このブログはMixi日記にも設定しているのですが、「タイトルを見て文章を読むか読まないか」を決める層の存在は無視できないようです(笑)ちなみに一番訪問者数が多かったのは昨日で、2月13日あたりも多かったです。
気になる?アクセス数ですが、このブログは訪問者数しか分かりません。
一人一日何アクセスくらいしてくれてたんでしょうね。